Ave Maria 演奏データは「Mioのぺーじ」のMioさんからお借りしております。2005年頃からのネット友達で、バイオリンの先生をされていた方です。現在消息不明
動画は、我が家のメモリアルステージで画像コントラストをあげて
ファンタジックにしています。聖母マリア像は縁あって長崎県から取り寄せたもので母親と愛犬がお世話になりました。
メモリアルステージになった経緯
元々、父親の位牌と仏壇は母親のところにありました。半畳スペースで2段の仏壇。
そして息子の私のところにも小さな仏壇と父親の位牌、そして先祖代々の位牌が30歳の頃からありました。
母親は80歳後半で介護のお世話になり、私も介護に通っていました。
母親が亡くなった後、父親の仏壇と一緒にできない理由があります。
「父親の位牌と先祖代々の位牌と仏壇、母親のものと私のものを、母親の納骨に合わせてお寺でお焚き上げしていただきました。」
そもそも父親と母親が結婚したのはお見合いからで、母親はお断りをしました。
嫁に入ると父方は旅館経営なのでお断りしたのですが、父親の方が諦めきれず恋文を送り続けたという押しの一手。
とうとう母親は父親の押しに負けて結婚。
案の定、旅館の嫁に入り休みなしで働かされていました。
館主は父親ですが、女将は祖母。
その祖母との折り合いが悪く、女中扱いをされ続けて8年後、父親はパブリカで東京行きの冷凍トラックに特攻。
父親の車の残骸がテレビにも報道され、まだ5歳の私はそのテレビを見ました。
母親は父親の保険金が下りると、両手に子供の手を取り、その場から夜逃げをしました。
という経緯なので(;)
父親の先祖代々の位牌と一緒にはできない。
という息子の計らいで、二十歳の頃の一人旅で長崎県のマリア園へ観光訪問し、小さなマリア像を撮影しました。
その写真は40年過ぎてJPGデータとなり、私のオリジナルソングの背景画として使用していました。
母親の介護も、主治医から「もうそろそろですよ」と携帯に電話が来て、夏のお盆入り。
迎え火の中で考えて、認知症も酷い母親のために、長崎県で制作されるあのマリア園で見た聖母マリア像を作る工房を探し当て、オンラインで取り寄せました。
認知症で悪魔のような醜態をさらす母親が清められるように。
聖母マリアへ罵声を飛ばす母親。その実、女学校時代はミッションスクールに通っていて、洗礼を受けたと言われていた母親でしたが、マリア像を見て「気持ち悪い、持って帰れ! ここは私の家だ!」と息子に罵声を飛ばす。
聖母マリア像を部屋の片隅に設置し、介護ベッドに寝ている母親の方角に向けていました。
やがて母親は静かになり、夜な夜な介護ベッドを覗くと、なんと母親は舌をベロンと出しているのです。
これはと思いました。そうです、聖体拝領を受けていたのでした。
まざまざと目撃してしまいました。
母親が聖体拝領を受けているその向こうに、こちらを見ている聖母マリア像。
そして母親の最後の朝。最後だとは神様しか知りえません。
朝7時に聖母マリア像を見ると、神々しさが感じられて、聖母マリア像が光って見えるのです。
6畳間の角に安置して比較的暗いはずが、神々しさで光輝いて見えるのです。
もしかして降臨されている?
その時スマホで撮影しました。9月1日午前7時撮影。
8時にはヘルパーさんがいつものように訪れて、もうやることもなく、私と世間話を、介護ベッドに寝ている母親を間にしてしていました。
70歳後半のヘルパーさんの経験談や葬儀の話などをするので、「そういう話は母親の手前やめましょう」と私が言うところで、
「お兄ちゃん、まだお母さん大丈夫だよ。しっかり息をしているし」と言うさなかに、母親の呼吸の変化が始まりました。
「あ、この呼吸の仕方はもうそろそろだ」と主治医に聞いているのです。
顎を引くような呼吸の仕方は、間もなくです! と言うと、ヘルパーさんは時間が9時を回っていたので帰りました。
私は悟り、まだ何も用意していない仏壇への花を、顎呼吸を始めたところで、駅前のスーパーへ歩いて7分、花を買いに行きました。
もしもこの時間で母親が息を引き取ってしまったのなら、母親と息子の縁はそれまでなのだと、死に目に会えなかった縁ということだと心に思いながら、焦らず花を買って戻り、父親の仏壇に切り花を添えて、お線香を焚き、声を出してこう言いました。
「母親〇〇に関係する霊たちよ! これから〇〇は霊界へ行きますので、お導きよろしくお願い致します。」
と、母親の身近なる霊に向かって号令を掛けました。
母親の兄弟7人も2名残して亡くなっているので、関係する魂は多いです。
そしてしっかり祈った後、介護ベッドに寝ている母親の横につき見守っていました。
まだ呼吸は顎を引いて戻して、引いて戻してと顎の上げ下げ運動をしていて、それが間もなく止まりました。
息が止まったのです。
私は冷静に用意していた聴診器で母親の胸に当てて無音を確認し、腕時計を見ると9時50分。
臨終 9月1日 9時50分。
すぐに主治医に2回目のメールをして臨終のお知らせと時間を伝えました。
実は9時50分は私の出生時間なのでした。
主治医が来て死亡診断書を書いてくださり、時間も9時50分と記されていました。
主治医が「私どもも何度も経験することですが、慣れるものではありません」と鼻をすすりながら言うのを見て、私は初めて気が緩み、涙がこみ上げてきましたが、人前で涙は見せたくないので、なんとか零れないように我慢しました。
主治医が去るとき、玄関越しで私は深くお礼をしました。
「本当にありがとうございました。今まで主治医が決まらず彷徨っていたので、良い主治医に巡り合えて母親の体調も安定していたのです。本当にお世話になりました。」と感謝しました。
その後、主治医からの連携で、いつも来られる訪問看護師さん2名が、すぐに駆け付けてくれて、母親のエンジェルケアをしていただきました。
私が一人になる時間がないほどの流れで、看護師さんに聞きました。
「良い葬儀屋さん知りませんか?」と。
するとすぐに紹介していただき、その場で聞いた葬儀屋さんへ連絡しました。
エンジェルケアが終わって戻っていった看護師さんたちとの間も開けずに、葬儀屋さんが大きなドライアイスを持参して来られました。
9月1日、まだまだ暑い時期でした。
そして夕方に霊きゅう車が来られて、母親はその日のうちに安置所へ移送。
私は肉親の姉と、母親の唯一の妹へ連絡して安置所の所在地を伝えました。
姉と叔母は9月2日、母親の92歳の誕生日に安置所でご対面です。
コロナ禍ということもあり、死に目に会えなかった二人です。
叔母の方は家族に「行くな!」と言われたとかで、生前の面会を断ってきました。
いわゆる、私と母親はワクチンをしていないということで、感染すると誤解してのこと。
そのため看取りをしてあげられなかった。
そして一人娘の姉。
二人とも地方からなので、道中の感染も考えられるため、行っても直接実家入りはせず、ホテルに滞在し、コロナ感染のテストを受けて陰性と結果が出てからでないとならないと姉は言っていました。
危篤でも駆けつけないという意思。
みんなワクチンで頭どうかしているね。
○火葬の日
3日、母親の火葬式です。
葬儀屋さんに火葬の日取りを調べてもらうと、5日は公営で無料。
3日は民間で7万円。
「どうしますか?」という問いに、
流れに乗って、冷暗所で母親を待機させられないので迷わず3日に。
3のつく日は良いので、迷わず決めました。
火葬の日、その火葬の担当者。
母親の遺骨を素手で取り、骨壺へ説明しながら収納する人の名札が気になり、姉が名前を聞くと「鈴木」。
実は葬儀屋さんの担当の方も鈴木。
姉も鈴木。
叔母も鈴木。
こんな偶然ってあるものなのでしょうか?
私だけが〇本。
父親の姓ですが、戸籍は新戸籍です。
実は母親は再婚して、東京で私たち姉と二人、母子家庭から再婚し、その再婚相手は鈴木。
2年間だけ私たちも姓は鈴木でした。
調停後離婚。
長男として姓はどうするかと聞かれ、実の父親の姓を新戸籍として復活したのでした。
6畳一間で3人家族。私中1、姉中3。
きっと「母親に関係する霊たちよ」の中に、かつての鈴木の霊が来られていたのでしょうか?
鈴木のオンパレード。
6畳一間でのアパート生活から都営団地に当選してから45年間。
都営団地といえども母親のお城です。
母親が亡くなる時はこの部屋で看取ってあげたいと思っていました。
知らない病院で人生を閉じるよりも、45年間も住み慣れた部屋で最期を迎える方が幸せだと。
〇納骨と遺品整理
母親の遺骨を母親の部屋に安置して、納骨をどうするか。
誰も相談相手はいません。
ネット検索をして、「49日納骨も悪くはない」という記事を見て決めました。
実は都営団地は契約者が亡くなると、49日までに部屋を明け渡さないとなりません。
資産として残る家ではないので仕方がありません。
49日納骨を目指し、母親の45年分の遺品整理を息子の私一人で。
大きな手押し台車を購入して、すべての遺品を主に粗大ごみとして出しました。
中には羽毛掛け布団など値段をつける余裕もないのでジモティに出品し、引き取りに来てもらいました。
ほとんど無償です。
母親の衣類などは、戦争経験者である昭和5年生まれ。
物のない時代を越えてきた人は、物を捨てないのです。
かなりの衣類があって、若いころに着ていた洋服とかもありました。
それらを、母親の貴金属入れの箱の引き出しを開けるとオルゴールが鳴る。
そのオルゴールを鳴らしながら線香を焚いて、母親の衣類をリサイクルごみとして袋に詰めました。
すべてです。
なので、母親の昔の写真が見れません。
写真撮影で着ていた洋服もすべて処分したので。
49日納骨の日の頃には、ほとんど部屋はがらんどうとなりました。
そして遺骨を母親の部屋に安置しました。
〇愛犬と共に
ここまで、主治医に「もうそろそろです」と言われた8月のお盆13日から泊まり込みで母親に付き添い、
その13日から高齢の愛犬と共に実家入りしたのですが、私一人ではなく、愛犬という存在が大きな気持ちのよりどころとなっていました。
愛犬と一緒に母親を看取れて本当によかったです。
その愛犬は、母親の納骨から2か月後に虹の橋を渡りました。
愛犬を引き取った日が11月15日。
愛犬が亡くなったのは11月19日。
4日間寝たきりで水も飲めなくなり、死を待つだけで、苦しめないように安楽死も考えてネット検索をしました。
ところが、安楽死は自然死ではなく、愛犬のためにはならないと学ばされました。
「どうか愛犬を苦しませないでください」とマリア様に祈り、
11月19日、朝から愛犬を抱いていました。
そして9時50分。
テレビのデジタル時計が9時49分から50分に切り替わった時に、愛犬の息は止まりました。
9時50分は私の生まれた時間です。
母親も9時50分。
愛犬も9時50分。
私は愛犬の息が止まった瞬間、母親の時は泣きもしなかったが、愛犬の場合は子供のように声を出して泣きました。
泣き嘆きました。
こんなつらく悲しいことはない。
いつも一緒だったので、人以上に悲しみは大きなものでした。
愛犬が虹の橋を渡っていって、やっと3年。
この3年間、悲しみは発作の如く襲い掛かってきたが、時間は少しずつ癒してくれるようです。
〇聖母マリア様のメモリアルステージ
毎日朝晩と、自分で自然に出てきた言葉で祈り、切り花は3年間絶やしたことはありません。
お供え物も愛犬のフードも。
愛犬の遺骨は、聖母マリア様に抱かれて虹の橋へ渡っていったので、ここが愛犬の霊園です。
私が亡くなった後に、愛犬の遺骨を私に撒いて火葬をするように遺言に明記しておきます。
きっと計画通りに物事は進んでゆくでしょう。
私は無宗教者であり無神論者ではありません
霊的な使命があれば、いつでもそれに従う体制でいます。






























